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第26回写真の町東川賞審査講評

昨年の25回という節目の年から新たな一歩を踏み出し、また2010年代最初となる第26回東川賞。 2月の審査会前に、町よりビッグニュースがもたらされた。賞金が見直され、新たな賞、飛彈野数右衛門賞が制定されるとのことだった。昨秋から国政は民主党政権への交代という新たな流れがあったものの、相変わらずの経済的低迷の気配であり、逆に“事業仕分け”では、文化系予算の削減、廃止という衝撃が相次ぐ中で、東川賞賞金の増額は驚きとともに大変喜ばしいニュースとして伝わった。賞金の増額は長年の願いであったが、写真の町東川賞のプレゼンスをさらに高めるとともに、買い上げ賞として、写真作品コレクションのさらなる充実につながることであろう。

  昨今盛んになってきた地方の文化イベントを核にした町の活性化を求める試み。写真の町東川の名前は、すでに先達としてその名を歴史に刻んでおり、また多くの写真賞の中でも、その独自性と先見性は際立っている。そして各地における文化イベントのその多くは出来事として記憶に残っては行くものの、作品という財産を目に見える形に残すことが難しい。東川の場合は、写真甲子園という大衆性のあるイベントと専門性の高いフォトフェスタが同時にあり、写真作品という“もの”を展示し、収蔵するという、出来事と作品の両輪による極めてバランスのとれた文化事業となり得たといえるだろう。写真というメディアの特性上コンパクトに収蔵できて、しかも移動が可能であるこのコレクションの充実は将来極めて重要なものとなる。

  さて今年の審査会では、昨年より勢ぞろいした8名の審査員が一人の欠席も無く、談論風発、極めて活発な議論を繰り返しながら順調に賞は決まって行った。そして結果的には海外の台湾から、沖縄を経て北海道まで。日本の近代から現代にかけての重要なテーマを想起させるような極めて関連性の高い第26回東川賞となった。

  最初に国内作家賞の選考会議から始まった。結論としては、全員一致で北島敬三氏に決定した。氏の写真家としての活動はもちろん、自主ギャラリーでの長年に渡る真摯な活動についても誰もが知るところだ。ギャラリーCAMPの設立に関わり、ストリートスナップから、最近ではPhotographers’ Galleryでの活動と、大型カメラを使用した定点観測的手法による制作など。小型カメラの機動性から大型カメラの描写力まで幅広く写真の可能性と本質を探る営為は一人の写真家としての活動のみならず、写真文化に幅広く寄与しているといえる。昨年開催された初期の仕事を検証する個展の盛り上がりもあり、国内作家賞に相応しく全員の評価が一致した。

  今年の新人作家賞は激戦であった。志賀里江子氏と笹岡啓子氏を推す声もあった。しかしながら、ジェームス・中川氏のデジタル技術を駆使した「バンタ」「ガマ」シリーズは、日本において、48歳ながら新たな知名度を得る本格的デビューに相応しい勢いと意味がある。同シリーズは、グッゲンハイム奨学金を授与され、数年に渡って夫人の出身地である沖縄において撮影された。長年海外に暮らすことのアイデンティティの二重性と、沖縄という政治と歴史の交差する土地における象徴的“場所”での撮影。写真は石灰岩と海の部分連続となる完璧なパンフォーカスであり、一点だけを見つめることを許さない。あたかも外側から透徹する視線のようである。新たな写真技術が、人、国家、アイデンティティ、歴史、といった重要なキーワードを裏打ちし、渾然一体となり、日本での一歩を踏み出すべく重みのある新人賞となった。

  特別作家賞は、夕張を訪れた事がきっかけで撮影を続け、「snowy」を出版した萩原義弘氏に決まった。萩原氏は1982年、新鉱事故後に初めて夕張を訪ね、その後北海道の炭鉱跡や全国の鉱山など、冬場の撮影を続けてこられた。かつて多くの人間が働き、栄えた町。その人知れぬ大きなエネルギーを背後にため込んだ廃虚。萩原氏のこの写真集はそこにカメラを向けながらも、すべてを覆い隠す白とグレーの世界である雪に焦点をあてている。その描き出す自然の美学。天然が織りなす彫刻を撮った写真集。しかしながら、その造形美の中に見え隠れする物質には紛れもなく人々の関わったかつての日常が有り、歴史が宿る。雪に覆い隠され白い影となった世界が控えめに語る言葉は、実は重い。

 今年の海外作家賞は、高橋朗氏の台湾リサーチから推薦された10名ほどの中から陳 敬寶氏が選ばれた。台湾は極めて近い外国であり、歴史的にも交流が深い。陳 敬寶氏は41歳。 ニューヨークにて写真を学ぶ。「片刻濃妝:檳榔西施」のシリーズは、台湾独特の檳榔売りの風俗を記録したものであり、「迴返」は、小学校教師の経験を活かし、過去1年間の忘れられないことを生徒に書いてもらい、それを忠実に再現させたシリーズである。見るものはそこに自身の記憶との重なりを見出し微笑む。そして「天上人間」のシリーズは、隣り合わせた墓や廟と日常生活空間といった、聖と俗の隣り合ったせめぎ合いに、台湾独特、特有な風景として見いだし撮影したものである。いずれも大型カメラを用い、精緻に描き出される。自身の住む社会を丁寧に見つめそこに自身の記憶の異風景を見いだす透明な視線は、台湾に生まれ海外で生活し学んだ経験によるものであろう。

 今年から新設された飛彈野数右衛門賞。東川に生まれ、長年にわたり、地元の光景を記録し続け、第17回特別賞を受賞された飛彈野氏の業績を偲ぶ賞である。地域の人、自然、文化等を撮り続け、地域に対する貢献が認められる個人(プロ・アマ不問)を対象に今回から創設された。初回である今回は、今後に向けて、賞の位置付けに対する議論から始まった。物故者のノミネートも多かったことから、誰に賞を出すのかという議論もあった。しかしながら審査会では机上に並べられた写真を見つめ、そこから選出することしかできない。今年は多くの議論があったが、『小島一郎写真集成』の写真の美しさと魅力は群を抜いて我々に訴えかけた。氏は青森の出身であり、1964年に39歳で夭折している。時代に翻弄されながらも、故郷青森をみつめ、津軽を中心としながら青森全域においてその風景と習俗を写真美に高めた。しかしながら、この作風は時代の流れの中では必ずしも十分な評価を残さなかった。その僅かな生の間に残された作品の数々の美しさ。2010年に飛彈野賞として顕彰することは必ずや意味があるはずだ。
 

最後になりますが、例年ノミネーターの方々には多くの写真家の情報をいただき、感謝しています。結果的に今年も多彩で重要な候補者の中から、厳正なる選考が行われ、各賞が連関するような、極めて充実した受賞者が決定いたしました。ありがとうございます。

東川賞審査会委員   佐藤時啓



第26回写真の町東川賞 《海外作家賞》
LauSong Project (迴返:老松計劃) #6, 2009
陳 敬寶氏(Chin-pao Chen)台湾在住

1969年中国福建省近海に位置し、台湾の管轄下にある馬祖北竿島生まれ。1999年ニューヨークのスクール・オブ・ヴィジュアル・アーツ写真学科卒業。同年、1996年より開始される「片刻濃妝:檳榔西施」のシリーズで台北市写真祭新人賞受賞。本シリーズは、台湾で大きな風潮と議論を引き起こした文化現象である、セクシーな衣装を着た若い女性が道沿いにある小さなガラス張りのスタンドで、運転手や道行く男性にビンロウを売るというシーンを撮った肖像写真作品である。2008年パリ世界文化会館のグループ展にも出展され、2009年国立台湾美術館のコレクションになる。
 2001年より、自身の小学校の先生としてのキャリアを生かし、描いてもらった子供の頃の回想シーンを再現して撮影するプロジェクト「迴返」をスタート。ドキュメンタリーとステージドフォトの結合を試み、現実とパフォーマンス、写実と記憶の間に揺れる曖昧な境界を探る。「天上人間」シリーズでは、住居と隣接して存在する墓を撮影し、現世と来世が共存する台湾庶民の社会的風景をとらえる。
 2008年韓国大邱写真ビエンナーレに参加、2009年台北美術賞優作を受賞。初期の頃から写真の芸術性を探求し、台湾中堅世代を代表する写真家として活躍している。


<作家の言葉>
 女性の体を欲望の対象として商品化する「檳榔西施」は議論を引き起こしたにも関わらず、いまでも台湾の国道沿いと高速道路の出入り口の近くに姿を現しています。ある文化研究者は「檳榔西施」を台湾庶民文化の代表の一つと見なし、色とりどりのネオンと派手なガラス張りのスタンドを含め、台湾庶民階級の自己意識と審美観を表していると考えています。数年をかけた撮影は、「檳榔西施」を「もの」から「人」へと戻す過程です。ある地域イメージの調査からこの特別な集団が浮かび上がったのですが、撮影を通じて、世紀末の台湾社会の証を残すことができたと思っています。
 「紅塵俗世」シリーズでは、我々の生活している世界を観察し、台湾庶民生活の中でよく見られる社会的風景を撮影しました。これは後に、住居と隣接している小さな廟とお墓を撮影し、台湾の土地を神、人間、亡霊が共存する場所として描いた「天上人間(Heaven on Earth)」シリーズへと発展します。
 「迴返」プロジェクトの出発点は前の作品と異なり、使い慣れた写実的な形式を避け、12歳くらいの学生を撮影の対象としました。撮影とは、いつも記録された「現在」か未来のことで、撮ることが間に合わなかった過去のものは外されています。ですが、この作品では大型カメラを使い、自然光と人工照明を活用しながら、自分自身や他の人から記憶の断片を切り取り、その記憶を演出、再現することによって、撮ることの間に合わなかったものを現像することができました。これらの写真は台湾の人々の集団記憶を探し、構築します。それはもしかして、擬似真実という服を着た「偽りの記憶」と称すべきかもしれません。

第26回写真の町東川賞 《国内作家賞》
U.S.S.R., 1991
北島敬三 (きたじま・けいぞう) 東京在住

1954年長野県生まれ。 1975年成蹊大学法学部中退。同年、「WORKSHOP写真学校」の森山大道教室に参加し、はじめて基地の街コザ(沖縄)を訪れる。1976年「森山教室」のメンバーらと共に自主ギャラリー「CAMP」を設立。同ギャラリーにて従来の展覧会の枠組みを刷新する連続展「写真特急便」を開催し、81年に日本写真協会新人賞を受賞。83年に写真集『New York』で木村伊兵衛賞を受賞。ノーファインダー、フラッシュ撮影などを自在に使った鋭敏なスナップシューターとして、高い評価を受ける。沖縄とアメリカを経由した視線はソ連へと向かい、東欧を経て、91年には崩壊直前のソ連に属する15の共和国で撮影。被写体に正対しながら、職業などの帰属先がわかるようなポートレート撮影をカラーフィルムで行う。それらの写真を16年の歳月を経てはじめて作品として発表した「USSR 1991」にて伊奈信男賞を受賞。
 92年から現在に至るまで、それまでのスナップショットとはまったく方法論が異なる、大型カメラによる「PORTRAITS」と「PLACES」のシリーズを継続して発表。アーカイブとしての写真の在り方を模索する。2001年からは写真家たちとの共同運営による「photographers’ gallery」を拠点に、雑誌の出版や講座、上映会など多角的な活動を展開している。

<作家の言葉>

この2〜3年、私は北海道に写真を撮りによく出かけている。この冬も、10日間ほど、根室半島に行ってきた。真冬の半島には風がビュービュー吹き渡って、全身が激しくしばれた。それでも、4×5判カメラと三脚をかついで雪道を歩くのは快かった。思わぬ幸運は、納沙布岬の断崖に生息するエト・ピリカという珍鳥を見たことだった。私が撮影していたすぐ横の電柱のてっぺんに、30分 かそれ以上もの間、じっと動かずに止まっていた。顔はオウムで体はカモみたいな鳥である。エトはくちばしで、ピリカは美しいという意味のアイヌ語。ところ で、写真と北海道の関係は深い。日本写真史の重要な原点の一つである。その原点とは、言わずもがな、田本研造を中心にした北海道開拓写真である。私は、それらの写真を北海道大学の北方資料室で見た。背中に鉄板が入ったような衝撃を受けた。明治初年の美しい鶏卵紙に写し出されていたものは、日本写真史の原点 ではなく、なによりもまず内国植民地としての裸形の北海道の姿だったのである。その後私は、若い写真家たちといっしょに運営しているphotographers’ galleryから、田本研造写真集(pg press No.8)を出版した。東川賞を受賞したことは、私にとって身に余る光栄です。


第26回写真の町東川賞 《新人賞》
From the Banta (崖) series #007, 2008
オサム・ジェームス・中川 (おさむ・じぇーむす・なかがわ) 米国・ブルーミングトン在住

1962年ニューヨーク生まれ。15歳まで東京で育つ。ヒューストン大学芸術学部にて修士号を取得。日本とアメリカ、東洋と西洋という二つのバックグラウンドを背負った二元性とその葛藤を軸に、記憶、歴史、家族などをモチーフとしながら制作を続ける。
 妻の故郷である沖縄の、集団自決の背景もある断崖での体験をもとにはじめた「バンタ」シリーズ(2005−08)では、複数の写真をデジタル合成によってつなぎ合わせ、眩暈のするようなパースペクティブと奇妙なリアリティをもった作品を制作。闇に閉ざされた洞窟を高解像度のデジタルカメラと人工光で長時間撮影した「ガマ」シリーズ(2008−)とともに、これらの作品は特殊に身体化された視覚経験を誘う。デジタル写真ならではの新たな次元で、過去の記憶が想起させられる。
 現在、アメリカ、インディアナ大学芸術学部写真学科長、准教授。ニューヨーク・グッゲンハイム財団からのフェローシップを受けて、沖縄での制作を行っている。


<作家の言葉>

日本を離れ今年で33年。今回の受賞に至り、日系,海外作家と云う枠の中ではなく、日本人として、作品と共に帰国できることを心からうれしく思います。
 昨年、佐喜眞美術館(沖縄県)において、 「バンタ」「ガマ」シリーズを発表する機会をいただきました。 「バンタ」「ガマ」は、それぞれ沖縄の絶壁と洞窟を意味し、どちらも第二次世界大戦中、大勢の人たちが自決を余儀なくされた場所として知られています。 崖の表面ににじみでた陰影、白くえぐりとられ、石灰岩がむき出しになった岩肌、黒く焼け焦げた洞窟、それらは、崖・洞窟が目撃してきたもの全てを赤裸々に物語っているようでした。撮影・探索の後 、撮りためた画像ファイルを再度、コンピューター上で繋ぎ描くために3年の月日を費やしました。複数からなる、オリジナルのデジタル画像をふたたび作成し再体験していくなかで、崖と洞窟は沖縄における歴史のメタファーとなりました。私の体験はデジタル加工を経て、ハイパーリアルな写真を創り出しました。
 今回発表する「バンタ」「ガマ」シリーズは、2007年ニューヨークにおいて初めて発表した作品が元となっています。ボク自身のディアスポラの視点から視た沖縄が、パリを経て、沖縄、東京,大阪そして、8月には北海道東川へと繋がりました。日本縦断のビジュアル・コミニュケーションは、今後の沖縄と本土とのポジティブなダイアログの手助けになることを願います。
 海外で長い間制作をし続けて来ましたが、 このようなチャンスをあたえて頂ける事は、48歳、寅年、歳男のボクにとって、こんなに最高な作家としての再スタートは、他有りません。本当にありがとうございました。


第26回写真の町東川賞 《特 別 賞》
手稲鉱山 札幌市 2000年
萩原義弘 (はぎわら・よしひろ) 東京在住

1961年群馬県高崎市生まれ。85年日本大学芸術学部写真学科卒業。2001年さがみはら写真新人賞受賞。2007年毎日新聞社出版写真部を経て、フリーとなる。
 1982年、前年に起きた夕張新炭鉱の突出ガス事故の影響が未だ残る夕張を訪れ、以降夕張と東京を往復しながら継続的に撮影を続ける。事故後から閉山までの過程を追うなかでジャーナリズムに興味をもち、新聞社の写真部に勤務するようになる。仕事のかたわら、夕張通いと、当時続々と閉山されつつあった全国の炭鉱や鉱山の記録撮影を続ける。ジャーナリズムではほとんど報道されることのない閉山後の状況を自分の目で見ていこうとするなか、廃墟写真とは一線を画した、人の生活の気配を感じられるような作品を、造形的な美学に裏打ちされた6×6のフォーマットで制作する。
 2004年 夕張を中心に全国の廃坑や鉱山跡を撮影した写真集 『巨幹残栄・忘れられた日本の廃鉱』(窓社)を出版。2008年には雪という自然の流動的なフォルムと、それに抱擁されつつも対峙する炭鉱跡の人の痕跡を、独特の視点でとらえた写真集 『SNOWY』(冬青社)を出版。2009年に目黒区美術館で開催された「‘文化’資源としての炭鉱」展では、83年に撮影した写真と同じ場所を2008年に再度撮影した「夕張定点観測」の写真をはじめて発表した。

 30年近くの歳月を経てなお継続的に夕張に通い、炭鉱跡の記録を続けるとともに、その記憶を表現する手段を探求している。



<作家の言葉>
 私が初めて夕張を訪れてから28年が経ちます。夕張は明治から石炭と共に歩んできました。「夕張定点観測」は、夕張新炭鉱の閉山後の風景を、25年後に再び同じ場所から撮影したものです。かつての日本を代表する産炭地は閉山と共に人々が去り、町のあちこちに見られた炭住街はなくなりました。炭鉱から観光へ、そして財政破綻へと、夕張のここ25年の変化は激しいものでした。作品はその変貌を記録したものです。夕張での撮影がきっかけとなり、全国の炭鉱や鉱山跡を訪ねるようになりました。「SNOWY」は雪に埋もれた廃鉱跡を撮影したものです。厳しい気象条件の中で人々は生活し、貴重な資源を採掘していました。そこでの僅かな人間の痕跡と雪という自然現象によって生まれる造形美に魅了され、いつの間にか虜になっていました。今回の受賞は今後の作品製作に対してたいへん励みになります。ありがとうございました。

第26回写真の町東川賞 《飛彈野数右衛門賞》
つがる市木造 1958年
小島一郎 (こじま・いちろう) 青森県出身 (1924−1964)

1924年青森市大町[現:本町]に、県内で最も古い写真材料商を営む家の長男として生まれる。54年、県写真界の草分けである父が創始した写真家のグループ「北陽会」の会員となり、本格的に写真を始める。当時土門拳らによって牽引されたリアリズム写真ではない造形美を追求するが、被写体としての「津軽」に出会うことにより、季節感豊かな津軽の大地とそこに暮らす人々を情感豊かにとらえた作品を生み出す。
 報道写真の先駆者・名取洋之助と知遇を得、58年には初の個展 「津軽」を東京・小西六ギャラリーにて開催。上京してフリーのカメラマンになる。 「下北の荒海」で『カメラ芸術』新人賞受賞。津軽、下北を継続的に撮影し、青森を主題とした作品で注目を集める新人作家となる。雲間から差し込む神々しい日の光や、雪の吹きすさぶ景色、荒涼とした光景を白黒の豊かな諧調でとらえた写真は、地方色を売りにした作品とは一線を画す、小島独自の世界観をうちだしていた。
 63年には新潮社から『津軽 ―詩・文・写真集―』 (文・石坂洋次郎、詩・高木恭造) が刊行される。年末から翌年にかけての北海道での冬季撮影旅行中に体調を崩す。北海道の撮影後、東京を引揚げ妻子が暮らす青森市で静養するも、64年、享年39歳の若さで死去。
 1980年代半ばより再評価の波が高まり、2004年に初の本格的写真集『hysteric Eleven 小島一郎』(ヒステリックグラマー)が出版される。2008年には故郷の青森県立美術館にて大回顧展「小島一郎―北を撮る」が開催される。同展は「東北のミレー」というキャッチフレーズとともに話題となり、小島の写真を広く世に知らしめることになった。